吉仲太造と1970年代を考える時、彼の抱えていたうつ病について、わたしたちはどのくらい意味をくみ取ってよいだろう。早すぎる死までずっと彼の身の内にあったうつ病を、吉仲が発症したのは、1971年のことだった。敗戦後に高度経済成長を遂げた日本が、ずっと続けてきた右肩上がりの時代の矛盾が露呈し、オイルショック(1973年)で急停止した時には、それまで放置されてきた公害問題は深刻化し、すでに隠匿できない被害があらわになっていた。他方、戦後社会の新しい美術を推進してきた前衛美術家たちは、岡本太郎をはじめ大挙して大阪万博(1970年)に動員された。吉仲は終始カヤの外にいたが、現代美術に大きな国家予算が充当される稀有な季節は、もちろん会期とともに終了していた。
それまで朝日新聞の不動産欄、株式欄をパネルに張りこみ、コラージュ作品≪大いなる遺産≫シリーズ(1964-66年)などを製作していた吉仲は、高度成長を謳歌する体制に、皮肉と批判、そして破産を予言していたのだった。静かな大作群は今も新鮮に見え、この画家は「大いなる」語り口を持っていたのだと思う。
その予言があたったともいえるとき、一転して吉仲の鬱の時代は、始まった。現代美術においても、版画ブームやもの派など様々な動向はあったものの、70年代はやはり内省の時代だといえるかもしれない。実験的な60年代には素材の冒険、動力や光、テクノロジーを取り入れた大作が試みられたが、70年代を迎えて美術とは何か、それを根本的に、視覚の検証から、造形への批判から行うための諸課題は、内向せざるをえないものだったと思われる。そのとき、吉仲の鬱はひとり彼だけの病と言うよりも、時代が投影されたなにものかのように象徴的に見えなくはない。
描くかわりに、写真を版にしたシルクスクリーンを白地にグレーで刷った≪病と偽薬≫連作(1975)で、吉仲は事物の希薄な像を起伏なく配列して、統語法をほぼ廃していた。イメージと絵画の関係を平行にしたままにするため、彼は像を引用として、引用の影として、扱ったのではないだろうか。アンディ・ウォーホルが、著名人の肖像を色鮮やかなシルクスクリーンにして、ウォーホル作品であるという以外の意味をみごとに消去して見せたのと、ちょうど真逆の反対、吉仲は逆説的にもなお、絵で物語る方法を探求しようとしていた。
描くことと描かないことのあわいを、1970年代の吉仲はなんとか潜り抜けようとしてなお、絵画をもって語らせようとしていた。病を押して作った紙作品≪又、わたしはまだ、語ることを知っていない≫(1976)シリーズに、痛々しいほどにそれが感じられる。語ることを知らない、その逆説を肯定したかのような1980年代の白い絵画群が、徐々に構想されていった。
白い絵具をナイフで形作り、一旦黒く塗りつぶした後、次には黒色を拭き取ってかすかに輪郭を浮き上がらせる。吉仲太造の最後の絵画群は、彼にしか描けない事物の無言劇、絵具の絵、物の言葉だった。鬱を抱えた彼が水底に降り、底を蹴って別の水面に這い出てきたような、見事さだった。そうしなければ描けなかったような絵だと思う。描くことと消すこと、語ることと語れないことのあわいに、吉仲は届いたのだと考える。
光田 由里 (美術評論家)