たとえば路地を歩き、スタジオの扉を開ける。
そこで、制作中の作品や、完成している作品、収納された作品、さまざまなモチーフ、画材や道具の配置、自然光や照明、メモの束、積み重ねられた本、エスキースや図面、壁に貼られているチラシ、あるいは流れる音や植物、工夫されてしつらえられた空間に迎えられる。
それは、作品を通して接していたアーティストの思考/試行の現場に入っていくことである。ホワイトキューブの空間では自律的に存在している(かのような姿を見せていた)作品が、制作の現場においては、それらがアーティストの日々の行為・プロセスの集積、その複雑さのうえにあることを現在進行形で示してくれる。
ひとつのスタジオから少し視界を広げてみると、京都には多くのスタジオが存在している。共同スタジオに限っても市内でその数20は超えており、個人のアーティストスタジオとなると数えるのは難しい。複数のスタジオが同時期にオープンスタジオを行う試みも、近年では2009年頃から様々な主体やスタジオによって行われており、そのような動きをふまえ2013年に京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで開催された「Kyoto Studio」展では、17の共同スタジオ、88名のアーティストが参加していた。
アーティストの制作の場は、自由になる空間を必要とし、また時に音や匂いを発する作業も伴うことから、多くの芸術系大学同様に、まちなかというよりはそこから外に向かって広がっている。京都という都市では、これまでに為されてきた多くの表現者たちの営みや歴史が重なりあい、物理的な距離の近さも相俟って往来も密なアーティストのコミュニティが育まれてきた。そこでの遣りとりは個々の制作を照らし返し、作品の豊かさを支えてもいるだろう。
今回のオープンスタジオは、4つの区にわたり、10のスタジオ、48名のアーティストが参加するという。これら点在するスタジオを結び、社会にひらくとともに、ゆるやかな連帯を可視化する。
制作の場を持つことが、個の営為だけにとどまらず、その場を共有する者どうしの情報交換や議論の場へ、あるいは外に向けては、時にオープンスタジオ、展覧会やトークイベント、ワークショップなどを通じ、他者を迎え入れ出会うことへと、展開していく。そのときスタジオは、自発的な試みを実践できる、手ずから獲得されつつある場、また、場の生成と同時に他者と相対することで作家としてのありかたそのものが形づくられていく場であるともいえるだろう。
このようなアーティストによる実践の傍では、市立美術館の再整備、京都市立芸術大学の移転といった、公的機関をめぐる変化も進行しつつある。アーティストたちの地図はこれからどのように描き重ねられていくだろうか。
さあ改めて、スタジオの扉を開こう。未だ見ぬ、制作の現場へ。
藏原 藍子 〔東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)〕