高嶋慈(美術批評)テキスト

温度(差)と持続的な対話への希求

4回目を迎える「2019 韓日藝術通信」展が掲げたテーマ「温度 終わらない対流」は、展覧会の内容面でも社会状況への示唆としても象徴的だった。「日韓合意」の破棄の要求、「徴用工」問題、貿易規制、日本製品へのボイコット、そして「あいちトリエンナーレ2019」における「表現の不自由展・その後」の開催中止と、日韓関係が急速に悪化する状況下にもかかわらず、作家たちの熱意により、民間レベルでの交流展が持続的に開催されたことの意義は極めて大きい。

展覧会コンセプトの一文「温度差は対流を生む」は、とりわけ日本側の出品作家の姿勢に強く感じられた。裵相順と井上裕加里は、植民地期の朝鮮半島で暮らした日本人の生の痕跡を、リサーチに基づき作品化している。裵は、20世紀初頭、鉄道建設の中継地として日本人が作った街、大田で生まれ育ち、引き揚げ後は日本国内での差別から自らの出自を語らずに生きてきた高齢者にインタヴューを行ない、映像作品を制作した。井上は、大邱や群山に残る日本家屋の外観を撮影した写真作品を、解体された家屋の端材とともに展示した。忘れられたように朽ちていく廃屋、今も人が住み続ける家、カフェなどにリノベーションされて新たな観光資源となっている建物、「撤去」とペンキ書きされた家…。忘却、融合と共存、上書き、転用、そして消去というように、(負の)歴史に対する様々な対峙のありようが読み取れる。

また、山本直樹、河村啓生、中屋敷智生は、本展のために新作を発表した。山本は、朝鮮総督府の植林事業に従事し、兄の伯教とともに朝鮮の陶磁器や工芸の調査に尽力した浅川巧の肖像を、砂糖で描画した。砂糖は、偽薬効果があり、口に入れると幸福感をもたらすが、摂り過ぎると糖尿病になるなど、毒にも薬にもなる両義性、奴隷貿易の商品であった歴史、溶けて無くなる儚さなど、重層的な意味の奥行きを与える。河村は、ドライフラワーにした白い菊の花を用いて、日韓両国の国旗を重ね合わせたイメージを形作った。日本では、菊の花は葬式や仏事に用いられ、また天皇制の象徴として国家的な意味を持つが、市場に流通する菊には、韓国、中国、東南アジアなどからの輸入品も多い。河村の作品は、「文化の本質性や純粋性」という思い込みやナショナリズムに疑義を突き付ける。また、イメージと描く行為、2次元と3次元、奥行きと圧縮など「絵画」をめぐる問題に取り組む中屋敷は、朝鮮王朝時代の絵画「文房図(チェッコリ)」からインスピレーションを受けた新作を発表した。チェッコリは、奥のものを大きく描き、手前と奥の大きさが変わらない「逆遠近法」で描かれており、中屋敷は自身の問題意識との連続性を見出している。この絵画という制度をめぐる関心は、朴眞皿(パク・ジンミョン)と崔民建(チェ・ミンガン)の作品とも接続する。朴は、夜風に揺れる柳を伝統的な水墨技法でミニマルかつ叙情的に描くが、分割/結合されたパネルは、「窓の格子」「フレーム」「グリッド」という視覚装置を示唆する。一見すると伝統的な絵画に見えるが、「窓としての絵画」というアルベルティの絵画論やグリッド構造など、複数の美術史的示唆が折り込まれたハイブリッド性を持つ。また、円形の凸面鏡の表面に犬を描く崔の作品は、ミケランジェロ・ピストレットの「鏡絵画」を想起させる。「こちらに視線を向ける犬」を見る鑑賞者自身の姿が鏡に映り込むことによって、「見る主体」と「見られる対象」の関係を複雑に錯綜させる。

全体としては、日本側の作家の方に、韓国との交流展に参加する意義を積極的に打ち出している姿勢を強く感じた。その意味では、交流展に対する姿勢に「温度(差)」があったと言える。均質に混じり合うのでもなく、内に閉じて停留するのでもなく、互いの差異を認め合った上で、どう新たな対流を生み出していけるか。困難な政治社会状況だからこそ、未来のために、アートを通した持続的な対話がよりいっそう必要とされている。

高嶋慈(美術批評)