宮岡 俊夫 (画家)

吉仲太造論 ~戦後日本社会への違和感~

 吉仲太造(1928~1985)は昭和三年、京都に生まれた。いわゆる昭和一ケタ世代である。この世代は青少年期にかけて第二次世界大戦を経験した世代である。わずか数年の差であるが、終戦時(=敗戦時)にある程度個人としての思想が形成されている青年であったか、まだ無邪気な少年であったかは戦争とその後の時代が彼らに投げかけた経験や影響において大きな違いがあるのではないか。吉仲は前者にあたる。
 戦後間もない50年代半ば頃から活動を開始し、時代とともに次々とスタイルを変えた吉仲太造。批評家の東野芳明が時代を追いかけ“ころっころっと変わっている”と批判したように一見一貫性のない吉仲の作品の変遷だが、つねにある感覚に裏付けられていたように思う。それは戦後日本社会に対する違和感である。
 戦後、青年であった世代の代表者として僕は三島由紀夫をあげたい。三島由紀夫と吉仲太造を比較するのは意外に思われるかもしれないが、1970年に自殺した三島と同時期にうつ病を発症した吉仲は重なるし、三島が1959年に発表した「鏡子の家」で表明された高度経済成長期へと向かう戦後日本社会への批判は吉仲の60年代以降の新聞の不動産欄や株式欄をコラージュした《碑》《喪》《大いなる遺産》のシリーズの思想に通じるものがある。
 ところで三島由紀夫の最高の理解者であった橋川文三は「鏡子の家」について書いた評論「若い世代と戦後世代」で自らの“戦中派”としての感覚を次のように語っている。吉仲が抱き続けた戦後日本社会への違和感と共通するものではないかと思われるので長いが引用したい。

 あの「廃墟」の季節は、われわれ日本人にとって初めて与えられた稀有の時間であった。ぼくらがいかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に超歴史的で、永遠的な要素がそこにはあった。そこだけがあらゆる歴史の意味を喪っており、いつでも、随時に現在の中へよびおこすことができるようなほとんど呪術的な意味をさえおびた一時期であった。
 ぼくらは、その一時期をよびおこすことによって、たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に変えてしまうこともできるように思ったのである。それはあいまいな歴史過程の一区分ではなかった。それはほとんど一種の神話過程ともいいうる一時期であった。そのせいか、僕には戦前のことよりも、戦後数年の記憶のほうが、はるかに遠い時代のことのように錯覚されるのだが、これは僕だけのことであろうか?
 ともあれ、そのようにあの戦後を感じ取った人間の目には、いわゆる「戦後の終焉」と、それにともなう正常な社会過程の復帰とは、かえって、ある不可解で異様なものに見えたということは十分に理由のあることである。
 三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その「廃墟」も消失し、不在化したこの平和な時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。

 吉仲の戦後の体験について詳しくは分からない。吉仲は自分が経験した戦後について多くは語っていないように思われる。しかし吉仲が国際社会へと復帰し高度成長へと向かう戦後日本社会について“異様なもの”と感じ取っていたことはその作品を見れば間違いないだろう。1956年に発表した代表作《地球人》で既存の社会の権威、権力の構造が崩壊した世界の無秩序状況を描いた吉仲は“あの「廃墟」の季節”をつねに現在の中によびおこし続けたように思われるのである。
 吉仲が到達した晩年の「非色の絵画」といわれた作品シリーズ。僕には周囲の情景がそぎ落とされ、最小限のものの輪郭だけが浮かび上がった極度に平面的で空漠とした画面は廃墟のようにも見える。橋川が感じ取った戦後の空間、“不思議に超歴史的で永遠的な要素”がそこにはある。
 橋川は引き戻されるような戦後をかかえた人間を比ゆ的に“その生涯をかけて体制の疎外者たることに専心した人間”とも言っている。70年の大阪万博で岡本太郎に象徴されるように多くの前衛美術運動が積極的な関わりを持った。一方で反万博運動も盛んであった。70年代そのどちらにも消極的であった吉仲は“体制の疎外者”であったと言えよう。またかつて盟友であり、ニューヨークに渡りコンセプチュアルアートの先駆者となった河原温。河原の日常的存在を消し去った行動も“体制の疎外者”としての行動ではなかっただろうか。
宮岡 俊夫 (画家)