ASK + POST 所属作家の中屋敷智生が KOKI ARTS (東京) にて 個展「明日ま、た明、日また明日と小きざ、みな足、取りで一、日一、日を歩む」を開催いたします。
https://nakayashiki.wixsite.com/tomonari
中屋敷 智生 個展
明日ま、た明日また明、日と時は小きざ、みな足、取りで一、日一、日を歩む
“To-morrow andto-morrow-and tomorrow, Creeps inthis petty-pace from-day today”
会 場:KOKI ARTS
会 期:2023年5月13日(土) – 6月10日(土)
時 間:12:00-19:00
休廊日:日・月・火・祝
場 所:〒101-0031 東京都千代田区東神田1-15-2 ローズビル1F
W E B:http://www.kokiarts.com
T E L:03-3865-8650
主 催:KOKI ARTS
オープニングレセプション:5月13日(土) 18:00 – 20:00
■ ギャラリー・インビテーション:KOKI ARTS
中屋敷は、近年、マスキングテープを絵の具と同様に「画材・メディウム」として使用しており、コラージュや切り絵を思わせる独特なレイヤーやテクスチャーの絵画作品を多く制作しています。マスキングテープは、時に線として、時に色面として、また物理的なレイヤーとして画面に定着します。絵の具とマスキングテープ、剥離、透過、余白、それらがキャンバスの上で渾然一体となることで、図と地の関係が不明瞭となり、我々の網膜像に映し出される視覚認識(知覚、直感、思考)がいかに不確かで危ういものかが顕在化されます。
是非、この機会にご高覧くださいませ。
■ ステートメント:中屋敷智生
混迷を極めるこの時代、宗教や戦争、コロナの問題など、世界中に数多ある真実に本当の正解などあるのだろうか。
わたしたちが認識している概念やモノの見方、とらえ方は全てフィクションなのかもしれない。そのような構造的真実やフィクションをも清濁併せ呑む絵画の可能性を模索していた折、キャンバスに貼ったマスキングテープを剥がさずに残すという、取るに足らない試みをおこなってみた。テープが貼り残された画面には、物理的なレイヤーと絵具のイリュージョンとが表裏一体となった不確かな世界のほころびが確かに存在していた。
■ テキスト:豊田市美術館 | 千葉真智子
「奔放にして触れる絵」
躊躇するくらいならば奔放に、できる限りのことを試してみる。中屋敷の心持ちをこういってみたら言い過ぎだろうか。とはいえ、ここ数年の作品からそうした印象を受けるとしたら、彼の絵だとはっきり同定できる、大きな虹を画面に収めた一連の作品によって一つのスタイルを確立したにもかかわらず、そこから随分遠くまできたようにみえるからだろう。たゆたうような絵具の滲みを中心においたかつての作品は、一つの平面の広がりであり、私たちに茫漠とした果てのない空間を感じさせるものであった。それらは虹という圧倒的なものを中心にすることで、ある種の調和のとれた世界を構成していたといえるだろう。ところがいまは、この決まったモチーフにかわり、画面には具体的に形容できないような複数の形や絵を構成するための「要素」が入り込んでいる。そして、出来事が発生し続けているような、定まることのない動的な揺れが感じられるようになったのである。拡張していくようだった画面が分節化され、複層化され、明確な中心を持つことなく複数の空間が共存するようになったといったらいいだろうか。絵は絶え間なく私たちに訪れ、気を散らす。
複雑な画面を作り出しているのは、中屋敷による様々な手技である。なかでも際立っているのがマスキングテープの使用だろう。画面の一部にマスキングを貼り付け、その上にさらに絵具をのせる。あえて透明度の高い絵具を使えば、色の向こうにマスキングの独特のテクスチャーが顕在化し、私たちは色と物質という別種のものが拮抗しながら積層しているのを実感することになる。あるいは画面上に同系色で、マスキングによる色面と薄い絵具の色面とを併置する。マスキングを透かして見える奥の色面と、絵具を透かして見える奥の色面が引き出す印象の差異は、私たちの知覚のチャンネルが多様で、その都度、無意識にチューニングしながら複数の情報を感受していることに気づかせるだろう。さらに絵具をのせたマスキングを一部剥がす。画面には自ずと制作以前に遡るゼロの地帯が出現し、しかもこのとき、ゼロの地帯を挟んで隣接する画面同士は、必ずしも同一平面にないような独立した場を形成している。そして、剥がしたマスキングを別の箇所に貼れば、ここにあった世界は瞬時に別の場所に転移する。いわば空間と時間が自在に往来し、一枚の絵のなかに共存するのである。
線も絵具の扱いも形の選択も自在である。マスキングが絵筆の代わりに線となる。絞り出した絵具をそのままのせたように引かれた線。反対に、地の絵具を掻き出してできた線もある。フラットに塗った色面の上に、薄塗りで勢いのある筆をぐるぐると回転させる。あるいは、ぼてっと部分的に厚く塗る。描かれた形は、目にした事物や風景、出来事の記憶から引き出されているのだとしても、それ自体はむしろ描くためのトリガーであり、ガソリンのようなものだろう。
こうして完成した作品を前に思う。よくもこの色にこの色を大胆に重ねたものだと。よくもこれほどラフに筆を走らせたりべったり塗ったり、違和を生じさせるものだと。そして、そう思いながらも一方で考える。中屋敷の絵が、ときにアブジェクションへと限りなく接近しながらもギリギリのところで破綻を免れているのは、理性によるところなのか、呼吸を置きつつ探られているせいなのかと。
私たちの知覚は千差万別である。だからこそ中屋敷は、様々な知覚の可能性を刺激するように複数の要素を一枚の絵に共存させるのだろう。絵がわたしたちの感情に触れ、諸感覚に介入してくる。その感受性の幅こそが人間の面白さであり、絵の面白さはここにあると言わんばかりに。