この度、ASK + POST 所属作家の中屋敷智生は、2月1日(土) から2月16日(日)までの期間、kudan houseにて開催される「CURATION FAIR | Exhibition」に、KOKI ARTS から出品させていただことになりました。新作を中心に絵画を展示いたしますので、ぜひご来場いただければ幸いです。
CURATION FAIR | Exhibition From KOKI ARTS
「美しさ、あいまいさ、時と場合に依る」
会 場:kudan house
場 所:東京都千代田区九段北1-15-9
アクセス:地下鉄 東京メトロ九段下駅:1番出口から徒歩5分
会 期:2月1日 (土) – 2月16日 (日)
※1月31日(金)は、プレス・関係者向けのプレビューを実施します。
時 間:10:00 – 19:00(最終入場 18:30)
W E B:https://curation-fair.com/
入場料:チケット Information
キュレーター:遠藤水城
音 響 構 成:蓮沼執太
会 場 構 成:五月女哲平
出展予定:
有元利夫、猪熊弦一郎、上前功夫、絵唐津 壺、大竹亮峯、風間サチコ、香月泰男、河井寛次郎、川端康成、金根泰、小瀬村真美、関根直子、髙木大地、辰野登恵子、鳥海青児、唐三彩万年壺、富田正宣、中屋敷智生、シュテファン・バルケンホール、藤島武二、ジョシュ・ブランド、松江泰治、三宅砂織、八木一夫、山口長男、李朝白磁壺 ほか
■ 概要
もし、それが作品でありうるのであれば、私も人間でありうるのかもしれない。
それを決めるのは私ではないが、少なくとも世界はそれを強く希望している。
1968年、川端康成はノーベル文学賞受賞に際し、「美しい日本の私 (Japan, the Beautiful, and Myself)」という講演を行いました。その26年後、川端に次いで日本人で二人目となる同賞受賞を果たした大江健三郎は、川端のモチーフを引き継ぎ、その講演の題を「あいまいな日本の私 (Japan, the Ambiguous, and Myself)」とします。
本展覧会The Beautiful, the Ambiguous, and Itselfは、二人の講演タイトルを重ねつつ、そこから「日本 Japan」と「私 Myself」を取り除けています。日本性と私性をめぐる言葉の圏域から離れてみること。日本人による日本特殊論はいつもどこかナイーヴな結論に陥りがちです。アイデンティティ・ポリティクスの隘路を踏み越える方向性も考えたい。
ところで「美しい日本の私」と「あいまいな日本の私」はいずれも新書として刊行されており、それぞれが優れた日本論として受容されています。しかし、両者の間にはある種の対立関係が見て取れます。図式化してしまうと川端の日本は、余白や侘び寂び、主客関係が失効した自然観など、私たちに馴染みのある日本論の典型ように読めます。一方、大江の日本論では、日本は近代によって引き裂かれており、地政学的な様々な矛盾を引き受けざるをえない分裂した主体です。
いささか牽強付会かもしれませんが、川端の日本と大江の日本の対比を、そのまま日本の古美術と近現代美術の対比にパラフレーズすることが可能かもしれません。川端や大江の意図したことではありませんが、二人の言説は、それぞれの美術カテゴリーを成立させる力学に近似している。さらに言えば、二人の日本論は価値付けの根拠にもなり得ています。無常感や侘び寂びによる価値の体系化と、近代西洋受容の矛盾の有意味化。美的な日本と多義的な日本。
本展覧会は、そういった「日本」の「私」から遠く離れたところから、芸術のあり方をラディカルに問うものです。作品それ自体の出自を日本の側にも作者の側にも置かず、それが作品でありえているという現象自体に焦点を当てること。教条的な情報とも、前提的な価値の確認とも違う、その時、その場における、感性的な経験の系を重視すること。美しさや曖昧さは、作者や時代や場所に還元されるものではないし、一部の人間にだけわかるものでもない。流行り廃りとも高尚な理論とも市場価値とも、おそらくあなたの感受性とも無縁です。人間ではなく、物の自律性(itself)によって、私たちの平等も自由も保障されている。畢竟、美術とはずっとそのようなものだったはずです。ただそれ自体として鳴り響くなにか。
■ KOKI ARTS:http://www.kokiarts.comコウキアーツは2012年に東京の馬喰町に開廊した現代美術のギャラリーである。ディレクターがニューヨーク出身のため、アメリカ、特にニューヨークで活躍している作家を多く取り扱っている。また、国内作家も若手からベテランまで独自の視点で紹介している。